霧島国際音楽祭は、今年で38回を数える。1980年にドイツの音楽家ゲルハルト・ボッセが創設したこの音楽祭は、2001年からチェリストの堤剛が音楽監督を引き継ぎ、アジアを代表する音楽祭へと発展。鹿児島・霧島高原にたたずむみやまコンセールを中心に開催され、国内外の著名なアーティストによる演奏会や、アーティストによるマスタークラスやレッスンが行なわれる。近くには温泉街もあり、大自然に抱かれたこの地は食にも恵まれている。ボランティアなど地元の人々と密接に結びついた音楽祭だ。アーティストはコンサートホールから離れ、近隣の施設などへも演奏のために足を運ぶ。
今年は7月19日から8月6日までの開催。とりわけ、トップクラスの演奏家が集結するこの音楽祭の演奏会は、非常に高い水準を誇る。その中から、筆者はピアニストのエリソ・ヴィルサラーゼとダン・タイ・ソンの関連する演奏を聴いた。2人に共通するのは、ロシア・ピアニズムである。しかし、その音楽はきわめて対照的だ。
(道下 京子)
【霧島国際音楽祭2017 エリソ・ヴィルサラーゼ スーパー・ピアノ・リサイタル】
グルジア出身のエリソ・ヴィルサラーゼは、モスクワ音楽院でヤーコブ・ザークに師事。そのほか、スヴァトスラフ・リヒテルやレフ・オボーリンらロシアの巨匠の薫陶を受けた。62年にチャイコフスキー国際コンクール第3位、そして66年にはシューマンの生地ツヴィッカウで開催されたローベルト・シューマン国際コンクールで優勝。ミュンヘン音楽大学で長らく教授を務め、現在はモスクワ音楽院で後進の指導にたずさわっている。ベレゾフスキーやヴォロディン、昨年のマリア・カナルス国際コンクールで優勝した佐藤彦大も彼女の門下だ。
筆者は2年前、彼女のレッスンを取材した。生徒は、あるベートーヴェンの作品を弾いた。するとヴィルサラーゼは「この曲、弾いたことがないわ」と言いながら、生徒よりも見事にその作品を初見で演奏し、まわりを驚かせた。彼女の音楽の基礎能力の高さを、まざまざと見せつけられた一場面であった。
会場の宝山ホールは、鹿児島市内中心部に位置し、この地方の音楽文化の中心を担う。1500あまりの座席数を誇るこのホールに、県内外から多くの音楽ファンが詰めかけた。
この日のリサイタルでは彼女の得意とするシューマン、プロコフィエフ、そしてリストによるプログラム。まずはシューマン「アラベスク」作品18。ヴィルサラーゼは、この作品から深いロマンティシズムを引き出してゆく。旋律線は幻夢の中に漂う音の霧から浮かび上がり、緩やかな起伏をたどってゆく。ホ短調に転じて、「なぜに」と熱く訴えかけるように旋律を歌わせるヴィルサラーゼ。やがて、夢の中に消えてゆくかのように結ばれる。続く「ノヴェレッテ」作品21の8も、音楽はめくるめく展開をしてゆく。この作品は1838年に完成。折しもこの頃のシューマンはクララとの結婚をめぐり、彼女の父ヴィークの反対に苦しんでいた。ヴィルサラーゼは、終盤から勝利を確信したかのように勇ましいステップで音楽を締めくくってゆく。
プロコフィエフのピアノ・ソナタ第2番作品14。70代半ばとは思えないほどの強靭(きょうじん)な指をもつ。音楽の強い推進力とともに、鋼のようなタッチで鋭く引き締まった作品に仕上げた。その表現は緩徐楽章でも同じように、一つの強い信念を貫徹するかのように流れ続ける。内声部の自在な表現は、作品に潜むこの作曲家のさまざまな顔を浮き彫りにしてゆく。
休憩を挟んで、八つの小品からなるシューマン「幻想小曲集」作品12。ヴィルサラーゼは曲集全体をひとつの音の絵巻物のようにつづる。夕暮れに始まる第1曲で聴く者を夜の世界へといざない、変幻自在なタッチを通してシューマンの複雑な心の動きを表情豊かに映し出した。
プログラムの流れは、ここでシューマンからリストへと移り変わってゆく。シューマン(リスト編曲)「献呈~君に捧ぐ~」は、結婚前夜に作曲家がクララへ贈った歌曲をリストがピアノ用に編み直した作品。静かに愛を語る場面に始まり、喜びをかみしめる二人を祝福するかのように感情を高揚させるヴィルサラーゼ。そして、愛を慈しみながら静かに音楽を閉じてゆく。
プログラムの締めくくりは、彼女のヴィルトゥオジテが存分に示されたリスト「スペイン狂詩曲」。華やかさと同時に、彼女のデリケートな音楽表現が印象的だ。
鳴りやまない拍手に応え、ヴィルサラーゼはアンコールとしてショパンのワルツ 第9番などを披露。
ヴィルサラーゼの演奏を聴いていると、その端々から「歌」が聴こえてくる。ロシア・ピアニズムの伝統的な表現とともに、彼女の人間性を強く感じさせ、聴く者に「音楽」を語りかけるリサイタルであった。
【霧島国際音楽祭2017 ダン・タイ・ソン プロデュース スペシャル・コンサート】
ベトナム生まれのダン・タイ・ソンはハノイ音楽院に学んだ後、モスクワ音楽院に留学。音楽院在籍中の22歳の時、第10回ショパン国際ピアノコンクールでアジア人初となる優勝を飾る。初来日以降、しばらくはショパン作品を演奏することが多かったものの、徐々にほかの作曲家の作品もプログラムに取り入れるようになる。プロコフィエフは、若き日のダンが日本で比較的早い時期にリサイタルやコンチェルトで演奏した作曲家のひとり。彼は近年、「束(つか)の間の幻影」をリサイタルで演奏している。
会場のみやまコンセールは、鹿児島空港から車で約25分。聴衆の足はバスか車、タクシーと限定されるにもかかわらず、会場は多くの客で埋め尽くされた。
プロコフィエフ「束の間の幻影」は20の小品からなるが、当日はそのうちの14曲を抜粋。ロシア革命前夜の混乱した時期に作曲されたこの音楽は、詩人バリモントの詩に霊感を得ている。ダンのピアノは、プロコフィエフ特有の硬質で鋭い表現とともに、ダンならではの柔和な詩情を漂わせ、視覚的に訴えてくる。静けさの中に自然に漂う響きは、緻密に測られた音と音との距離感や多様なタッチを通して生み出されている。まさに現世を超越したような神秘的な音画の世界だ。
続いて、プロコフィエフの弦楽四重奏曲第2番。85年エリザベート王妃国際コンクールの覇者、ナイユアン・フーを軸とした、成田達輝、鈴木学、そして菊地知也の4者による高い集中力のみなぎる演奏であった。この曲は、第二次大戦中の41年、北コーカサス地方へ疎開していた頃に接した民族音楽にインスピレーションを得て書き上げられた。三つの楽章の随所に、民族音楽的なエッセンスがみられる。第1楽章では、素朴で生き生きとした音の動きのなか、フーは透き通るような響きで旋律を歌い上げてゆく。旋律やモティーフを艶やかに奏でてゆく第2楽章。主部の優美な趣に心を奪われる。そしてフィナーレでは多彩に表情に富んだ生気あふれる音楽を創出し、とりわけチェロは作品にしなやかな息吹を注ぎ込むような雄々しい演奏。
後半は出演者全員によるフランクのピアノ五重奏曲。ダンはリヒテルの演奏するこの作品に感銘を受けたという。この日が初めてではなく、過去のこの音楽祭でも取り上げたことがあるそうだ。
この作品は、ヴァイオリン・ソナタなど彼独自のスタイルが確立された頃に作曲された。フランク特有の循環形式にもとづき、半音階的な動きを交えたハーモニーに彩られた、とにかく熱い音楽だ。また、卓越したオルガニスト、ピアニストとして活躍した彼らしく、ピアノパートはなかなかの難曲。分厚いテクスチャーをもつこの作品を、奏者それぞれの音の色でドラマティックに描き上げてゆく。ピアノは、低音部に比重を置くなど、大きな音の構築物をじっくりと組み立てる。陰影豊かな叙情性に包まれた第2楽章。静謐(せいひつ)な趣のなかにもほの暗い情熱をたたえ、折々にピアノはアンサンブルにきらめきを放つ響きを注ぎ込む。フィナーレでは、綿密に練り上げられた音のドラマが印象的だ。ダンは、ピアノパートの困難さを微塵(みじん)も感じさせない驚異的なテクニックによって、多彩にして壮麗な音楽を形成した。全体を通して、密度の高いアンサンブルが心に残る。
卓抜な指さばきとこの上なく美しい音を紡ぎ出すダンも、ロシア・ピアニズムの継承者だ。近年、ベートーヴェンやシューベルト、シューマンといったドイツ音楽の世界を深く追い続けている。この日のプログラムを聴き、孤高の境地に向かう彼を見た思いがする。
◇公演データ
【霧島国際音楽祭2017 エリソ・ヴィルサラーゼ スーパー・ピアノ・リサイタル】
7月28日(金)19:00 宝山ホール
ピアノ:エリソ・ヴィルサラーゼ
シューマン:アラベスク 作品18
シューマン:ノヴェレッテ 作品21∸8
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第2番 作品14
シューマン:幻想小曲集 作品12
シューマン(リスト編曲):献呈~君に捧ぐ~
リスト:スペイン狂詩曲
【霧島国際音楽祭2017 ダン・タイ・ソン プロデュース スペシャル・コンサート】
7月29日(土)13:00 みやまコンセール
ピアノ:ダン・タイ・ソン
ヴァイオリン:ナイユアン・フー、成田達輝
ヴィオラ:鈴木学
チェロ:菊地知也
プロコフィエフ:「束の間の幻影」より
プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第2番
フランク:ピアノ五重奏曲
筆者プロフィール
道下京子(みちしたきょうこ)東京都大田区生まれ、広島育ち。桐朋学園大学音楽学部作曲理論学科(音楽学専攻)卒業、埼玉大学大学院文化科学研究科(日本アジア研究専攻)修了。音楽月刊誌「音楽の友」「ムジカノーヴァ」「ショパン」への寄稿や、コンサートのプログラムやCD のライナーノートなどに曲目解説やエッセイなどを執筆。共著は、大学院在学中に出版された「ドイツ音楽の一断面――プフィッツナーとジャズの時代」など。
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